8:51:22 pmがいろいろ探す

主にレトロなもの。稀少地名漢字、廃墟、トマソンなど・・・

廃墟 1 : 福岡県能古島西岸の朽ちたコンクリート桟橋

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1. この物件の発見

2016(平成28)年10月28日(金曜日)。

今昔マップさんのところで、僕の住んでいる福岡県付近の古地図を見て回っていたとき、能古島に「特種鉄道」の記号を発見。

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福岡県 博多湾 powered by Google マップ
博多湾に「能古島(のこのしま)」という島があり、10分程度の船が結んでいる

 

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福岡県 能古島 西岸 - 1950(昭和25)年 powered by 今昔マップ
赤丸で囲んだところ、山の斜面に一直線の「特種鉄道」の記号がある

 

1950(昭和25)年の地図には、山を直で横切る鉄道の記号がある。これが索道かインクラインかこの時点では不明なのでとりあえず「鉄道」と呼ぶ。

今昔マップで見られる版をいくつか見比べると、1936(昭和11)年の地図にはすでに描かれており、1972(昭和47)年の地図では消えていた。戦前から存在し、戦後少し経ってから消えたようすだ。

「鉄道」の記号があるその麓、砂浜を見るとここにもなにやら海に迫り出した、さっきの鉄道とつながりの有りそうなものが描かれている。桟橋か……?

 

この「鉄道」が廃止されたのは戦後10~20年あたりと思うから、すでにこの鉄道が山の斜面から消えてから半世紀は経っているだろう。

それでもなにか形跡を見いだせないかとGoogle Earthで付近を覗いてみた。

 

(この記事は画像が多いです。通信量にご注意下さい)

 

 

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福岡県 能古島 西岸 powered by Google Earth
砂浜に、古い地図に描かれたのと同じような、海に迫りだす何かがある

 

何かある。

拡大。

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福岡県 能古島 西岸 powered by Google Earth

 

 ややややややややややや!!!

見に行きたいと思ったうえ、見に行きたいと思うし、見に行きたいと思った。さらに言えば見に行きたいと思ったし、見に行きたいと思った!!!

 

一部が朽ちた、径間3m/幅2m程度の、いかにも古そうなコンクリートの桟橋のようなものが写っている!

 

2. 事前調査

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福岡県 能古島 西岸 - 1950(昭和25)年 powered by 今昔マップ
「鉄道」の山上側をよく見ると崖の記号がある

 

こいつはまずナニモンなのか。

山を直線でむりやり登るような鉄道はだいたい索道インクラインだろう。

山の上に住居や観光地があるようでもなく、麓側の砂浜にも何もないようなので、旅客を乗せる感じではないようだ。産業用?

山の上だから伐採場か?と思ったが地図の、「鉄道」の山上側をよく見ると、崖の記号がある

 

実は能古島は、昔からとゆかりのある島だ。

Wikipediaにはこんなふうに書いてある。

島の西海岸には3億年前の変斑れい岩・結晶片岩が波に洗われ、その横には1億年前の花崗岩がある

神子柴系石器群の片刃磨製石斧が表採されているほか、島内各地から黒曜石製の打製石器が表採されている

つまり山の上に採石場があったのではないか?

ここで採れた石をインクラインで下へ降ろし、桟橋から船に積み込んだか?

 

そしてなぜ廃止されたか。

廃止は前述の見比べにより、1972年より前であろうことはわかっているが…

廃止が1960~70年代ごろとしたらエネルギー革命のあおりを受けての廃止か?それ以外が原因の不採算?廃止がもっと前、1950年代であれば終戦に伴ったか?

 

 

Google 検索を掛けてみると、これらに関する情報がいくらかヒットした。

 

能古博物館だより(第37号 : 平成12年11月) より引用

また、昭和30年頃までは、島の東と西の2か所に採石場があったと言われており、その跡は古い地図に載っている。

なお、地図にはないが、戦時中に内務省博多港の堤防の根石とするため、直轄で掘ったという採石場が無線中継所の下にある。

当時、切り出した石は自転巻きで海岸の桟橋まで運んでいた。その方法は、採石を積んだトロッコが自重で坂道を下り、同時に、つるべ式に繋いだロープで空のトロッコを引き上げていたそうだ。

 

福岡地域の地質 (地質調査所 : 平成6年) より引用

(2) 新第三系玄武岩
福岡市西区能古島及び西区今宿の今山で間知石・割栗石・道路用砕石として採掘された. このうち能古島では最盛期には 4-6 箇所で採石が行われていた. ここの玄武岩はいずれも島の中腹 (海抜 70m-110m)
より上にだけ賦存するため, 採掘切羽より海岸までの急斜面をインクラインで降ろし, 専用の桟橋から
船で搬出していた. いずれの採石場も 1950 年代に廃止された.

 

おお、ビンゴ。採石場だ。

 

おおまかにまとめ。

 

 

インターネット検索でわかるのはこのくらいだ。

 

 

 

このくらいしかないのである。

 

 

この広いインターネット上に、先述のものと個人のtwitterはてなダイアリーで数件画像や言及がある程度で、それ以外の情報らしい情報がまるで転がっていない。かなりの穴場だ。

 

この時点では、廃止時期は1950年代とわかったが、なぜ廃止されたかは不明だ。

 

福岡県内に、こんな近くに、こんなものがあるとは思わなかった。

近くでよく見て、現地でも軽い聞き込み調査くらいをしてみたいと思った。

 

3. 現地探訪

 2016(平成29)年10月29日(土曜日)。この物件を見つけた翌日。

家族(母と小さい弟)も暇つぶしに能古島の公園に行きたいというので、ついでに連れて行ってもらうかたちで車に同乗した。能古島に船で渡るまでの道中、とても楽ちんだ。

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福岡県 姪浜港
姪浜-能古港を結ぶフェリー

フェリーの料金は大人1人230円/子供1人120円。車は大きさによるが1,340円(車体長3m未満)~から乗せて運べる。

10分の船旅。

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福岡県 能古港
ここからまず南西岸ヘ車で向かった。

 

能古島南西には、少しの舗装されていない道路の先に広場がある。

ここで車から降ろしてもらい、僕だけ別行動だ。なお車を運転する僕以外の家族一行はそのまま能古島北部のアイランドパークへ遊びに行った。楽しかったそうな

広場の先には、海岸に沿った遊歩道が300mばかり整備されている。これを北のほうへ歩いて行く。

 

この遊歩道から目的地までは写真ではなく動画を撮影していた。ここに掲載した写真は、その動画から1フレームを抜き出したものだから、若干画質が悪い。

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福岡県 能古島 南西岸 遊歩道
南西岸には300mほどの(南端が若干出来損なった感じの)遊歩道がある

 

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福岡県 能古島 南西岸 遊歩道
遊歩道を歩いて行く

 

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福岡県 能古島 南西岸 遊歩道終端
Google Earthで見るとバンが、ここを訪れたときはカブが停まっている

正直この遊歩道の終わり方にはかなりな未成道臭を感じたが、今は特に突っ込まない。

なにやらカブが停まっているが、こっちのほうに用のある人がいるのか…?

 

ガードレールの向こうへ降りる。

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福岡県 能古島 南西岸
岩がゴロゴロ転がっている砂浜

ここからは砂浜をひたすらに進む。いい感じに潮が引いている。

 

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福岡県 能古島 南西岸
奥に見える小高い岩が「白鳥崎」

なかなか足元が悪い。左右両足それぞれ30回は軽くグネった。

 

奥に見える小高い岩のあるところが「白鳥(しらとり)崎」だが。

 

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福岡県 能古島 西岸 白鳥崎
この辺で動画を撮していたところ、人影が (写真右上部)

 釣りをしている方がいらっしゃった。なるほど、先の遊歩道終端に停まっていたカブはあの人のものだったのか。

 

僕の人見知りも災いしてなんとなく気不味かったが、それでも人が近くにいる安心感はなかなかのもの。

 

そっと近くを通り過ぎたその瞬間、

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福岡県 能古島 西岸 白鳥崎
写真の左の外が白鳥崎 (釣りしてる人が居たところ)

 

 見えますでしょうか。

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見えちゃった

 

 いらっしゃいますね~

 

ダッ(とても駆け出す)

 

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福岡県 能古島 西岸 桟橋

 

HOWAAAAA

スッゲェ~~~~~~~~~~~

 

よくわからない物体!孤独感!非日常感!

すごいっす…

 

とりあえず観察。

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痩せ細った桟橋

おお、骨皮筋衛門だ。

一箇所にいたっては橋脚が地に着いていない。

よっぽどの長い間、ここで塩水をかぶっていたのだろう。

 

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海へ続く、骨だけのトンネル

橋の下に入ってみた。

この眺め、いいですねぇ。

 

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時の流れに削られて寸足らず

鉄筋まで削げている…

 

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橋台(石垣)
谷積みは石垣の積み方としては江戸後期から昭和にかけてよく見られる

桟橋の袂。谷積み石垣に接続している。

ついでに、よく見るとラーメン橋ではないようだ。 

 

この石垣は、写真で見て左側がやや崩れている。

触った感じではまだ強固だが、それでも見えない脆さがあるかもしれないから

登るのはどちらかというと非推奨だ。

 

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攀じ登った(非推奨)

石垣の崩れてない側から登攀。

この眺めは見たいでしょう。

 

このまま桟橋の先まで行ってみようかとも思ったけど

桟橋自体にガタが来てるとちょっとさすがにマズい上、普通に自分のバランス感覚に自信がないので

2分ほど風景を眺めて桟橋から降りた。

 

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ちょっと寝かせたアングルで

さきほどからの画像に緑が写り込んでいるとおり、石垣の上は低木がよく繁茂している。

 

このまま後ろを向いて斜面を登っていけば

インクライン操作室跡でも見つけられたかもしれないが、

この時は軽装備だったし、この斜面がまたモノッソイ灌木藪なので身が敵わないと思ってこれもやめた。

 

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よく時間を経て、自然と相性がなかなか良くなった人工物

 

いやはや、堪能しました。ごちそうさまですホント。

 

4. 事後調査

さて、ネットにほとほと情報の転がっていないこの桟橋、

もうちょっとぐらい探ってみたい。

 

能古島には「能古博物館」(場所)がある。

 

というわけで向かってみた。

資料でもないかな~と思ってとりあえず入場して一周してみたところ!!

 

 

 

 

 

何もなかったです!

 

 

 

 

なんとなく悔しかったので、

 

 

 

「すいません、ちょっとよろしいですか?

ここ、能古島の西の方の海岸に、

コンクリートの桟橋みたいなのがあるって聞いたんですけども」

思い切って受付のご年配の女性さんに切り出してみちゃった。

 

 

すると、かなり話に乗ってくれた。うれしい。

また、途中でその受付の女性さんの知り合いであろう、こちらもご年配の女性さんが訪れてきて、その方からもいくらか話を聞くことができた。

 

以下に、聞き取りで得られた情報をまとめる。

  • 戦時中に稼働していたらしい
  • トロッコが使われた
  • 「トウア コウアン」と言う事業所が運営していたらしい
  • コンクリート橋の先には船が着いて、採った石を積んだ
  • コンクリートの上にはトロッコのレールなどいろいろがあったと思われる、らしい
  • 戦後、受付の女性さんが幼少時に潮干狩りに付近を訪れたときには、すでに稼働は終了していたが、その当時コンクリートの桟橋付近には、レールとかっぽい残骸が散らかっていたらしい

欲しかった情報がたくさんである。ありがたや...

 

さらに、受付の女性さんは、「能古小学校百年誌」(1985)を事務室の奥から取ってきて、僕に軽く目次や産業に関わる章を見せてくれた。

 

が。

能古島の採石事業に関する記述がさっぱり見つからないのである。

「こういうのにはだいたいのことは載ってるんだけどね」と、受付の女性さんすら不思議なお顔。

 

 


 

ちょいと余談。

この記事の事前調査の章でしれっと記述したが、

能古島西の2箇所に採石場があった

 のである。

なんとなく流していたが、今昔マップで能古島を見ると、東側にも実はちゃんとインクラインと桟橋と、山上側に崖の記号が存在している。

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福岡県 能古島 東岸 - 1936(昭和11)年 powered by 今昔マップ
赤丸で囲んだところ、山の斜面に一直線の「特種鉄道」と桟橋と崖が描かれている

今回調査しているのは西側の採石場だが、側の採石場についても幾許か情報を得られたので以下にまとめておく。

  • こちらも戦時中の稼働
  • トロッコで採石を降ろした
  • 内務省の管轄
  • 桟橋はかなり長かった
  • 桟橋は沈んでしまった
    大潮のときにはちょっと頭のほうが見えるかも

 という具合である。

 

側の採石場については、ここではまとめるだけに留めておこう

興味深い内容がいくらか見えるが、今はスルーさせていただく。

 

この記事では西側の採石場を扱う。

 


ということで閑話休題。 

 

  • 戦時中に稼働していたらしい
  • トロッコが使われた
  • 「トウア コウアン」と言う事業所が運営していたらしい
  • コンクリート橋の先には船が着いて、採った石を積んだ
  • コンクリートの上にはトロッコのレールなどいろいろがあったと思われる、らしい
  • 戦後、受付の女性さんが幼少時に潮干狩りに付近を訪れたときには、すでに稼働は終了していたが、その当時コンクリートの桟橋付近には、レールとかっぽい残骸が散らかっていたらしい

 

改めて今回探訪した西側の桟橋に関する情報を見てみよう。

 

 

  • 戦時中に稼働していたらしい

 つまり、この桟橋を含む採石場が生まれたのは

「戦時」という単語義を広めに見て、1931年以降だろう。

 

  • トロッコが使われた

 いかにも昔らしいぞ。

 

  • 戦後、受付の女性さんが幼少時に潮干狩りに付近を訪れたときには、すでに稼働は終了していたが、その当時コンクリートの桟橋付近には、レールとかっぽい残骸が散らかっていたらしい

 戦後には稼働終了。事前調査の「1950 年代に廃止」という情報にだいたい合致する。

 

  • 「トウア コウアン」と言う事業所が運営していたらしい

 コレ。この情報で核心に迫れそう。

 

「コウアン」とは聞いたままの音を頭にメモっておいただけのもので、正確な表記ではない。

「コウアン」に音が似、且つ実在し、この桟橋にしっくりくる単語といえば「港湾」である。

 

「東亜港湾」。これを Google 検索にかけてみたところ、

この名前をした会社が存在していたことがわかった。

 

東亜建設工業株式会社

京浜工業地帯の生みの親とも言われる、浅野財閥設立者浅野総一郎が、財閥を設立する前から神奈川県横浜市付近の埋立地造成のために創業した組織・会社で、現在も建設業者として運営中。

1908(明治41)年に創業、その後「鶴見埋築会社」「東京湾埋立株式会社」と社名を転々とし、まさに戦時中の1944(昭和19)年「東亜港湾工業株式会社」の名となった。

東亜建設工業公式サイトの「東亜の歩み」ページの第1部「東京湾埋立に賭した壮大な夢」の中には「戦時下、全国各地で造成事業」という見出しがあり、能古島での事業運営をなんとな~く匂わせる。とりあえず不自然ではない。

 

 

能古島西岸のコンクリ桟橋についての情報をインターネットで軽く募ってみると、一人名乗りを上げた人がいた。

その人は、浅野財閥が行った埋立事業によく関わった書物が近くの図書館にあるかもしれないといい、改めて取り寄せる機会があるから調べさせて欲しい、とのことであった。 (ここは個人情報保護の観点より脚色済み)

 

二つ返事でお願いした。

情報が見つからなくても、見つからないということ自体がひとつの情報になる。

 

 

 

そうして2週間後、お返事があった。

 

その内容は浅野財閥関係の資料をあたったところ、間接的な記述が見つかった」「当該社名については、東亜港湾工業で間違いないと思われる」という旨の文章と、東亜建設工業が書いた本の1ページの写真が添付されたものおよび補足説明文章であった。

この情報が間接的な記述でありながらなかなか核心に迫る。

 

添付された写真に映された本の文章を以下に引用する。文字色は僕による強調。

 

 関係工事については、昭和一八年五月から二〇年三月にいたる約二年間に、海軍艦政本部、海軍施設本部、横須賀海軍施設部から合計一〇件、請負契約総額約五九二万円にのぼる工事を受注している。このうち終戦までに竣工したことがはっきりしているのは、わずか三件にすぎない。
 しかも、営業報告書では、軍事機密ということから地名表示を避けており、関係書類もそのほとんどを終戦直後に焼却している。このため、直接関係者の多くが物故した今日となっては、その全容を知ることはきわめて困難になっている。終戦時まで同社が手掛けていたことが明らかなのは、木更津、追浜、豊橋および隼人(鹿児島県)の各海軍航空隊の飛行場拡張工事ぐらいである。
 このほか軍需関連では、南方原油処理を目的とした丸善石油松山製油所の用地埋立工事、国直営工事としての松山港湾修築工事をそれぞれ昭和一八年一一月と翌一九年一二月に着工している。だがこれも、海軍の飛行場拡張工事と同様、しだいに敵機の空襲を受けるようになる。

東京湾埋立物語」(1989) 194ページより

これに今回とりあげた能古島西岸の採石場が該当するとすれば、道理で能古小学校百年誌にも載っていないしネットにもあまり情報が転がっていないわけだ。

 

あきらかに、(かく)そうとする動きがある。

 

その本の文章は、戦時の日本の、闇に葬り去られた部分を示していた。

 


 

このコンクリート桟橋および桟橋と山の中腹を結ぶインクラインは、戦時に造られ、戦後間もなくに停止された、極秘裏に海軍が進めた埋立地造成のための材料となる石を運ぶためのものだった……ということになるだろう。

正確な運用開始/終了年、稼働中の現場の様子や輸送量など、またインクラインの現在の状況は、いまのところ不明である。

 

軍事機密に関わったこの桟橋のことを知っている人も今やわずか。時の流れとともに、記憶も桟橋も風化していく。

「戦争だから」という人間の都合で作られ、「秘密だから」という人間の都合で捨てられた、ペーソスの塊のような遺構。来ぬ石と船を待ち続けて半世紀、今も潮をかぶって静かな浜に佇んでおられた。

 

 

 

 

ああ、朽ちた桟橋。

ひとしれず戦後の世をながめて、ひとり。

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いかがですか、海は。
昔よりは、凪いでますか。

 

以上。

新しい情報が入り次第追記・修正する。

 

3/5 0:57 一部修正

3/19 19:13 一部修正

4/6 21:47 より自然な言い回しに修正